カルキディウス『ティマイオス注解』103節〜145節 要約と解説

Calcidii Commentarius in Platonis Timaeum

土屋睦廣
[103] ほぼ全文が『ティマイオス』37a2-c3 の引用。宇宙の魂を構成する「同」と「異」の運動が認識の働きと結びつけられて説明される。「異」の運動は感覚的なものを対象とし、思惑(opiniones) を生み出し、「同」の運動は「不可分で常に同じ種類のもの」を対象とし、知性と知識(intellectus et scientia) を生み出す。

[104] 前節の引用箇所の解説。引用文中の「声も音もない運動」とは「精神の最も奥深いところに住む理性(ratio) 」であると言わる。Waszink は、中期プラトニストがこの箇所を『ソピステス』263e3-5 と関連付けて解釈していたことを注記している。さらに ratioとoratioの区別が言及される。これらはともにロゴスの訳語となりうる語で、スペルの類似と相まってしばしば関連づけられていたからである。「oratioとは魂に ratioの観念を伝える仲介者(interpres)である」と言われている。感覚的なものを対象とする「思惑」と、可知的な(intellegibilis)ものを対象とする「知識」との区別が言及され、真なる認識の生起が恒星天球の運動 (「同」の運動)に擬せられるている。

[105] 37d3-e3 をパラフレーズしつつ、永遠(aevum) と時間(tempus)の相違が解説される。感覚的な世界の範型(exemplum)である可知的な世界は永遠であるが、可知的な世界の似像(imago) である感覚的な世界も全時間にわたって存続する。時間とは永遠の模造(simulacrum)であり、永遠が自己の立場に止まっているのに対し、時間は常に前進し反復している。感覚的な世界はこの時間と同じ瞬間に作られた。

[106] 37e4-38a1 の引用とその解説。永遠には「ある」のみが相応しく、「あった」「あるだろう」は時間に関して言われるのが相応しいという『ティマイオス』の記述に対して、「ある」と言われるべき時間は全く存在しないという説が紹介される(過去はすでに「ある」とこを止めており、未来は未だ「ある」ことではなく、また、現在とは止まることのない瞬間の動きなのだから「ある」とも「あらぬ」とも言えない)。これに対して、「ある」という言い方は過去、未来、現在に関しても用いられうることが実例とともに論じられる(「ホメロスは神のごとき詩人である」=過去、「来年オリンピックがある」=未来、「今日コンピタリア祭がある」=現在)。Waszink は脚注でヌーメニオス(fr.14 Leem.) を引用している。

[107] 「ある」という語の使用にまつわる論理的な問題に関する挿入的議論。すなわち「我々は、それらが <あらぬ> ことを示そうと欲するときに、その <あらぬ> それらをも、どうして <ある> と言うのだろうか」。ここでは、「〜である」という繋辞としての「ある」の用例が指摘され、質料(silva) は質料としての限りでは、可能的には「ある」が、現実性を伴わないならば「ある」とは言えないことが論じられる。「しかし、この議論は論理的なもので、自然の研究には全く関係しないのだから、保留しておこう」と言われ、議論は打ち切られている。

[108] 38c3-d6 を引用(38d1-6)を交えながらパラフレーズする。時間が計測可能なものとなるようにと、7つの惑星が「異」の7つの円軌道にそれぞれ配置されたことが語られる。以下、注解第1部の終わり (第118 節) まで惑星の運動の問題が論じられる。

[109] 水星と金星が太陽とは「反対の力を持つ」(38d4)と言われていることに対する注釈。以下第112 節まで、水星と金星の運動について論じられる。これらの記述は諸家によってアドラストスに由来すると見なされている。本節では「反対の力」に関する2つの説が紹介される。 1太陽は恒星天と同じく常に東から西に日周運動をしているが、太陽の周転円は恒星天と逆向きに1年で1回転する。他方、水星と金星は常に恒星天と反対に運動する。 2水星と金星はときには太陽に先行し、ときには太陽に追い越される。このことが起こるのは「太陽の円にもこれらの星のどちらの円にも、1つの中心と1つの点があるからである」と語られる。これは、太陽と水星と金星とが同じ中心を巡る周転円を持つことを意味していると考えられる。もちろん、周転円は一般にプラトンより後の時代の考案と見なされているが、カルキディウスは太陽の運行の不規則性を説明するために、第79〜82節でスミルナのテオンに依拠して、離心円と周転円について詳論している。

[110] 金星の運動に関するポントスのヘラクレイデスの説(fr.109 Wehrli) が紹介される。ヘラクレイデスは金星と太陽の「2つの円に1つの点と1つの中心を与えることによって、金星はときには太陽よりsuperiorになり、ときにはinferiorになることを示した」と語られる。これは第3の説ではなく、前節の 2に属すると見なすべきであろう。しかし Neugebauer は、superiorとinferiorの原語 anoteros と katoterosが天文学において「より先」「より後」の意味で用いられていることを指摘して、この箇所を、金星と太陽は地球を巡る異なった軌道を運行しているのだが、地球からの見掛けにおいて金星は太陽の先になっり後になったりするように見えることが述べられているにすぎないと解している* 。これには少なからぬ支持者がいる。しかし、異なった軌道を運行している惑星が地球からの見掛けですべて恒星天球上に投影されて見えることは、すでに説明されたことであって(cf.ch.78,83) 、ここでわざわざそのような初歩的な説明を繰り返しているとは思えない。またそのことだけでは、ここで問題になっている、金星が常に太陽の側を離れず先行したり後行したりするように見えることが説明できない。ここで述べられている説は、太陽の周転円の外側に同じ中心を持った金星の周転円があるとするものであろう。ただし、以下に述べられる図解には太陽の周転円は示されず、金星は太陽を中心として回転しているように示されている。水星と金星が太陽の周りを回るという説は、ウィトルウィウス (IX 1.6) 、マルティアヌス・カペラ (VIII 857,879) その他にも言及されている。そこでは考案者の名は述べられていないが、これがヘラクレイデスの説であった可能性が高い。

[111] * O.Neugebauer, On the Allegedly Heliocentric Theory of Venus by Heraclides of Pontus",American Journal of Philology 93(1972),pp.600-1; A History of Ancient Mathematical Astronomy,vol.2(Berlin 1975), pp.294-6. なお、第109-111 節の解釈およびヘラクレイデスの説については、cf.H.B.Gottschalk,Heraclides of Pontus(Oxford 1980),p.69 ff.

[112] 前節の議論を図によって説明する。Waszink,p.158 の左図は明らかに間違っている。地球と宇宙の中心をXとし、Xを中心に描いた円(恒星天)の上に、角AXBと角BXΓとがそれぞれ50度になるように、点ABΓを置く。線XBの中間に太陽Kがあって、Kを中心にして2本の線XAとXBに接する円を描く。Kを中心とする円が金星の軌道で、AとΓは地球から見て金星が太陽から最も離れて見えるときの恒星天上の位置を示す。

[113] 金星の運動が図によって示される。Waszink,p.158 の右図も間違っている。前節と同じ図になるが記号の付け方が異なる。地球と宇宙の中心がXの代わりにKで表される。前節で太陽を中心にして描いた円が、ここでは円ΔEZHで表され、これが金星の軌道であることが言明されている。この円が線KAに接する点Eと、線KΓに接する点Hとが、地球から見て金星が太陽から最も隔たって見えるときの金星の位置である。この円が線KBと交差する2点が、金星が地球に最も近づくZと最も遠くなるΔである。金星は弧HΔEを 448日で、弧EZHを 136日で通過すると言われている。

[114] 38e3-6の引用とそのパラフレーズ。天体がそれぞれの天球に配置されて命を与えられたと同時に、宇宙全体も魂を働かせ理性を分け持つようになったと語られる。

[115] 38e6-39a3 の引用とその解説。それぞれの惑星が「異」の運動によって回転させられる。内側の軌道を回る惑星ほど回転周期が短く、外側の惑星ほど周期が長いことが語られる。

[116] 39a4-5の引用とその解説。「同」の回転による恒星天球の日周運動と、これと逆行する「異」の回転による惑星の年周運動との合成運動によって、「より速く回転するものが、より遅く回転するものによって、追い越すのに追い越されるように見える」理由が説明される。

[117] 39a5-6の引用とその解説。日周運動と年周運動の合成運動によって、惑星が螺旋状の軌跡を描くことが説明される。螺旋(helix) を説明するのにしばしば用いられている「ハアザミの渦巻き」(acanthi volumen) とは、コリント式柱の柱頭見られる渦巻き模様の装飾を指している。Waszink,p.162 の図は意味不明。

[118] 39b2-c5 の引用とその解説。地球から2番目の軌道に最も明るい天体、太陽が置かれた理由は、天界の秩序が見渡せるためと同時に、昼夜の交代と暦月、暦年が生じるためであったと語られる。

[119] 39d2-7の引用とその解説。すべての天体(恒星天と7惑星)がもとの配置に回帰する、いわゆる「大年」(magnus annus)の説明。それがいかに稀なことで、果てしない年月を要することであるのかが語られる。年数の算定は行われていない。「大年」ごとに世界に破局がもたらされるとする説をカルキディウスは拒否している。Waszink は脚注で、本節はアドラストスではなくヌーメニオスに基づくものと推測している。本節で「感覚的な世界の構成」を扱った注解第1部が終わる。

[120] 本節から注解の第2部が始まる。本節から第202節までは「生物の4つの種族について」と題される。感覚的なこの世界(それ自体が生物でもある)がその原型である可知的な世界にできるだけ似たものとなるために、4種類の生物の生成が語られる。『ティマイオス』 (以下Tim.と略す) 39e3-40a2 のパラフレーズ。この4種類の生物とは、天体、飛ぶもの、泳ぐもの、地表を歩くものであり、それぞれがその身体を構成する主要素である火、空気,水,土に対応する。

[121] プラトンは上記の生物だけでなく、ダイモン(daemon, angelusとも言われる) にも言及しているが(40d6-41a3) 、「これを論じることは、高尚すぎること、自然の考察を越えたことなので、彼はやむをえず保留」した、と言われる。以下、Tim.40a2-b4 をパラフレーズしつつ、天の種族である天体の生成とその運動について語る。ダイモンについては第127- 136節で詳論される。

[122] 前節の終わりに言及された、場所的運動の7つの種類についての解説。7つの運動とは、前後、左右、上下、回転運動のこと。このうち天体には、主要な回転運動と付帯的な右への運動 (Tim.では「前進運動」と言われる) のみが割り当てられる。

[123] 神が大地を「すべてのものを貫いて全体を包括する軸の両端に縛りつけて、夜と昼の見張り番となるように置いた」(40b8-c2) という記述の解説。この箇所は古代から地球の運動(もしくは静止)を巡って、解釈上問題のある箇所。カルキディウス(以下Cと略す)はとくに問題となる語 40b8 illomenen をcomstrinctamと訳して、上記のように解している。ここでは、宇宙の中心に火があって、その周りを地球と対地球が巡るという、ピュタゴラス派の説が紹介されるが、C自身は、地球は宇宙の中心に静止しているとする解釈を支持している。

[124] 大地が昼と夜の「見張り番」(custos)であり、「神々の中で最も古い」(40c3)と言われていることの解説。不動の大地の周りを太陽が巡ることによって昼と夜の交代が生じるゆえに、大地は「見張り番」と言われる。「最も古い」と言われる理由は3点述べられる。 1大地は生物を受け入れる場所であるが、場所はそこに存在することになるものよりもより先なるものだから。 2大地は宇宙の中心点であるが、点は大きさや量よりもより先なるものだから。 3運動しているものよりも静止しているものの方がより先なるものだから。さらに、大地が宇宙の中心に静止しているとする説を支持するものとして、ヘシオドスの詩句 (Theog.116-8)が引用される。Cはこの箇所の「カオス」を caligo と訳し、質料 (hyle,silva) のことだと解している。Waszink の注によれば、本節で述べられている解釈は他の文献には見出せない。

[125] Tim.40c3-d3 のパラフレーズとその解説。惑星の順行と逆行、合と衝、蝕などのに関する天文学的な説明。とくに、これらの天文学用語とプラトンが用いている語との対応が逐一指摘されている。Waszink は、本節の記述はすべてアドラストスに由来すると主張している。

[126] 長い周期をおいて起こる天体現象が、人々に恐怖をもたらしたり未来の出来事の予示したりするという記述(Tim.40c9-d2) が引用 され、天体は地上の出来事を直接引き起こしているのではなく、未来の出来事を予示しているのだという解釈が述べられる。そこから、ホメロス(Il.22.30)が引用され、シリウスが惨禍を予示するという話が、次節にかけて挿入される。

[127] エジプト人が Achと呼ぶ星(やはりシリウスを指す)のことが言及され、ホメロス(エジプトのテーバイ出身という説があるので、エジプト人と言われている)が『イリアス』の巻頭で語る「アキレウスの怒り」は、実はこの星の予兆のことを暗示しているのだという解釈が述べられる。さらに「最も神聖で畏怖すべき話」として、イエスの誕生を予示して、いわゆる東方の三博士を導いたとされる星の話が言及される。

[128] 本節から第136節まで、ダイモンに関する議論が続く。ダイモンの本性に関する考察は「秘儀的な」(epoptica)もので、自然学よりも深遠なものだと言われる。自然学には相応しくないこのような問題にプラトンが敢えて言及したのは、「世界の構築がいかなる部分においても未完成のまま残されることがない」ためだと語られる。

[129] 『哲学者』(Philosophus) と題される書におけるプラトンの説として、人間における神の観念の起源が説明される。太古の人間は生活の助けとなるもの(これらは神の摂理に由来する)をそれ自体、神であると考えた。これらを後に詩人たちが描き出して「壮大で意味深長な名前でもって飾り立てた」。「かくして、人間によって神の摂理に帰されるべき感謝の代わりに、冒涜の起源と端緒が開かれた」。Waszink は、『哲学者』という題によってCは『エピノミス』のことを指しているのだが、ここでは彼がプラトン派の他の書で読んだことを、誤ってこの書に帰しているのだと解している。

[130] 以下のダイモンに関する議論は『エピノミス』が主な典拠となっている。同心球上に層をなす世界の5つの領域の区別が説明される。最も高いところは澄んだ火の領域で、以下順番に、アイテール、空気、湿った実体(濃密な空気)、土の領域と続く。

[131] まず、最も高いことろ(天)と最も低いところ(大地)とが、天体と人間という理性的な生物によって占められたのだから、中間の領域も理性的な生物(ダイモン)によって満たされることが必然だと論じられる。天体が魂をもった生物であることの傍証に、ヘブライ人の見解として『創世記』1,16が引用される。

[132] 物質にも火と土の中間には空気と水があるように、不死で情念から解放された天体と、情念に従属した死すべき人間との間にも、両者の本性をともに分け持つ中間的な種族が存在しなければならない。それがダイモンであり、その本性は不死であると同時に情念からも解放されていない。

[133] ヘブライ人は、アイテールの領域に住むダイモンたちを「聖なる使者」(sancti angeli) と呼んでいる。このダイモンたちは最高の知性をもち、人間によく配慮し、神と人間との仲立ち役を勤める。創造者である神は、人間の種族を造ったときに、人間が彼らによって正しく統治されるようにと、人間の上にこれらのダイモンたちを造ったのである。

[134] ダイモンの中には、「神の僕」である「聖なるダイモン」もいれば、「反対の力をもつ者の従者」「堕落し汚れたダイモン」もいる。しかし今は、プラトンが「驚くべき思慮と記憶力」をもつと言っている種族について論じることにする。cf.Epinom.984e5-985a6.

[135] 天上の神々と地上の人間の仲介者となるのは、アイテールと空気のダイモンたちである。彼らはそれぞれアイテールと空気から構成されているので、我々の視覚や触覚からは隔絶されている。cf.Epinom.984e3-5.

[136] 「ダイモンとは理性的で不死で情念をもつ(pathibile) アイテールの生物で、人間たちに配慮する」と、ダイモンの定義が述べられ、それぞれの言葉の意味が解説される。この定義は空気のダイモンにも当てはまる(ただし、空気のダイモンは空気中に住み、より情念を受けやすい) 。その他にも称賛に値しないダイモンたちがいる。彼らはそれほど人間に好意的ではなく、ときには様々な姿で我々の目にも見える。彼らはしばしば神の正義に従って冒涜と不敬を罰し、人間を傷つけることもある。彼らは「逃亡した使者」(desertores angeli) とも呼ばれる。

[137] プラトン派の多くの人たちは「ダイモンとは身体的な任務から解放された魂である」と考えている。善き人の魂はアイテールのダイモンに、悪しき人の魂は有害なダイモンになり、千年目に再び地上的な身体を纏う。ピュダゴラスの『金言集』(Versus Aurei,70-71)が引用される。しかし、プラトンは明らかに、ダイモンと人間の魂は別のものだと考えている。神は我々の魂よりも先にダイモンたちを造り、我々の魂はダイモンの援助を必要とし、ダイモンは我々の魂を保護するようにと欲した。

[138] 続いて、死すべき種族の生成が論じられる。人間の魂の理性的部分は世界の魂と同じ2つの力(「同」と「異」)をもち、これは「至高の知性的な神」自身に由来する。他方「理性を欠いた堕落した魂の部分」の製作は、この神によって生み出された神々に委ねられた。その理由は、すべての生物が不死なるものとなって、死すべき種族が存在しないことで、世界が不完全なものとなることがないためである。 cf.Tim.41c2-d3.

[139] Tim.41a7-d3 で、神が生み出された神々に向かって語りかける場面について、プラトンがこのように「劇のような」(doramatica)「物語風の」(fabulosa)書き方をした理由が論じられる。 1読者の楽しみのために。 2読者に書き手の苦労を感じさせないために。 3読者の新たな意欲をかき立てるために。 4この教説が自ら作り出したものではなく、神によって命令されたことだと、読者に思わせるために。

[140] Tim.41a7-b6,c6-d3 の解説。神は自らを「製作者」「父」呼び、造り出された神々(天体)を自分の「作品」と呼んでいる。これらの言葉の意味が解説される。生み出された神々は感覚的なものであるが、その造り手である神は可知的である。彼らは合成されたものであるゆえに、分解可能であるが、彼らは時間的な生成によって生じたのではなく、時間を造り出した至高の神の意志によって生じたのだから、分解されえない。プラトンは神的で不死なるもの(魂の理性的部分)を「理性の権能」(rationis potentia) と呼んでいる、と言われる。Waszink の注によれば、「理性の権能」とはTim.41c7 hegemonoun を指し、Cもしくは彼が依拠した著者は、これをストア派のhegemonikon と同一視している。

[141] 人間の魂の製作(Tim.41d4-7)の解説。神は先に世界の魂を造ったときに用いたのと同じ材料と同じ方法を用いて、人間の理性的魂を造った。ただし純度においては以前よりも劣っていた。人間の魂は「同」の本性によって神的なもの、可知的なものを認識し、「異」の本性によって生成するもの、感覚的なものを認識する。

[142] Tim.d8-e2 の引用と解説。神は魂たちに掟を告げる前に、それぞれの魂をそれぞれの星に乗せて、世界の本性を眺めさせた。「神性の支えなしには、魂は自分自身では神的なものは何ひとつ見ることも理解することもできない」。

[143] 神は魂たちに「定められた不可変の法を教えた」(Tim.41e2-3)。ここでプラトンは重大な問題を提起している。これについては古来から今日に至るまで多くの論争が行われているが、ここではプラトンの教説に従って簡略に論じる。すなわち、物事は運命によって起こるのか、あるいは意志によって起こるのかという問題である。以下第190節まで、運命(fatum) に関する議論が続く。Waszink は、Cの運命についての議論の第一の典拠はヌゥメニオスであると主張している。

[144] プラトンによれば、摂理(providentia) が運命に先行する。運命は摂理から生じるが、摂理は運命から生じるのではない。プラトンによって運命は2つの意味で解されている。運命の実体(substantia)を理論的に考察する場合と、実際に生起する事柄から運命を認識する場合とである。プラトンはこの運命を『パイドロス』では「不可避の定め」(248c2) と呼び、Tim.では「法」(41e2)と呼び、『国家』では「ラケシスの言葉」(617d6) と呼んでいる。以下の運命に関する議論には、偽プルタルコス『運命について』(De fato) と酷似した記述が頻出する。

[145] 前節で引用された「不可避の定め」「法」「ラケシスの言葉」という語の解釈が述べられる。運命は実体としては世界の魂である。これは恒星の領域、惑星の領域、月より下の領域の3つの部分に分けられ、それぞれが(運命の三女神の名をとって)アトロポス、クロト、ラケシスと呼ばれる。ところで、運命と摂理とは実際には同じものだと考えている人たちもいる(例えばクリュシッポス)。摂理とは神の意志(voluntas)であり、神の意志は原因の連鎖(series causarum) であるが、神の意志としては摂理と呼ばれ、原因の連鎖としては運命と呼ばれる。したがって、運命よることは摂理によることでもあり、摂理によることは運命によることでもある。しかし、摂理によって生じることは運命によっても生じるが、運命によって生じることがすべて摂理によって生じるとは言えないと考える人たちもいる(例えばクレアンテス)。

* 127-136節については次の注釈書がある。J.Den Boeft,Calcidius on Demons,Philosophia Antiqua 33,Leiden 1977. 142節以下の運命論の箇所についても、同著者による注釈書 Calcidius on Fate,Philosophia Antiqua 18,Leiden 1970がある。

[145] 引き続き「摂理」(providentia) と「運命」(fatum) に関する議論。物事にはそれぞれ、摂理、運命、人間の意志、運 (fortuna)、偶然(casus) によって生じるものがある。「神的で可知的なもの」は摂理に従い、「自然的で物体的なもの」は運命に従うが、我々の裁量(arbitrium) によるものは我々の意志に基づく。他方、我々の力が及ばず理由なしに予想外に起こることのうちで、我々の意図に始まりを持つものは運によって生じると言われ、そうでないものは偶然に生じると言われる。

[146]  生み出された神々が父なる神の命令に従って、死すべき生物の製作に着手することが語られる『ティマイオス』 (以下Tim.と略す)42e5-43a2が引用され、「第二の神々が服従した神の命令とは、永遠の秩序を維持する理法(ratio) であり、これが運命と呼ばれ、その起源は摂理に由来する」という解釈が述べられる。

[147]  神は宇宙を構築した後、星と等しい数の魂を、それぞれに相応しい星に乗せて、魂に宇宙の本性を眺めさせ、不変の法を教えたと語られるTim.41d8-e3 が引用される。これらはすべて摂理の任務であるが、ここで述べられている「法」は運命であると言われる。

[148] 現実態における運命について論じられる。生成するものは無限定であるが、万物を包括する運命は有限で限定されたものである。そのことは、すべての天体が再び元の位置に戻る「完全な年」(perfectus annus) と呼ばれる時が巡ってきたときの天の状態から明らかであると言われ、いわゆる「大年」に言及しているTim.39d2-7が引用される。なぜなら、この「完全な年」が満たされたときには、天体も地上の事物も生成するものはすべて、再び新たに元の状態にもどるからである。本節とほとんどそっくり同じ記述が、偽プルタルコス『運命について』568f-569b に見られる。Waszink は、このように運命論の解釈にTim.の「大年」の記述を結びつけたのは、ヌーメニオスではないかと示唆している。

[149] 運命は、無限に多様で無限の過去から無限の未来にわたって起こる出来事を司るが、それ自体は限定された不可変なものである。円運動とそれを計る時間と同様、運命も円環的なものだからである。それゆえプラトンは、世界の中で起こるすべてのことの第一の原因として、運命を「不可避の定め」 (『パイドロス』24bc2)と呼んだのである。

[150] この「神の法」(=運命)を、神は宇宙の魂に万物を永遠に支配するために与えた。運命に従って起こることは、先行する原因に基づいて結果が必然的に生起する。このことが、幾何学の公準から定理が必然的に導き出されることにたとえられている。

[151]  運命の始原(initium) は摂理であり、運命はそれに服従することも服従しないことも、ともに包括している。運命によって決定された報いは、それに先行するものに従って生じるが、報いに先行するものとは、我々の魂の運動、判断、同意、欲求、嫌悪であり、これらは我々の内にある。したがって、何を選ぶかは我々の意志にゆだねられているが、その結果としてどのようなことが生じるかは必然性によって縛られている。そして、運命と、運命によって必然的に生じるものとは、別々のものである。

[152]  宇宙の魂は実体としての運命であり、これに形象(informatio)を与えたものが万物を支配する法である。その仕組みは「これこれのことがあるならば、これこれのことが後に続いて起こる」というものである。それゆえ、「我々の内に置かれたもの」「運命そのもの」「運命の法に従って報いとして身に振りかかるもの」の三つことが区別される。運命の法を言葉で表現した例として『パイドロス』248c3-5 が引用される。

[153] 子供を作ったならば、その子は汝を殺すであろう、というライオスへのアポロンの神託(エウリピデス『フェニキアの女たち』18-20)が引用される。子供を作るかどうかはライオスの意志にゆだねられていたが、後に続いて起こったことは、もはやライオスの力の及ばない運命の必然であった。つまり、ライオスがこのような災いを被ることは、必然によって定められていたことではない。彼が子供を作ったのは運命に操られたのではなく、彼の自制心のなさによる。

[154]  同様に、アキレウスは、トロイアで戦ったならば死ぬという運命を知っていたにもかかわらず、自ら選択して戦ったのである。「責任は選択する者にある。神に責めはない」という『国家』617e1-5 が引用される。さらに、モーゼの説として、神は最初に生まれた人間たちに知恵の木の実を食べることを禁じた、という『創世記』の話が述べられ、神がそのようなことを告げたのも、食べることも食べないことも人間にはできたからだ、と語られる。

[155]  以下の三節は「人間の能力の内にあること」について論じられる。すべてのことは「可能なこと」「必然的なこと」「不確定なこと」(dubium)に分けられる。「可能なこと」は類(genus) であり、「必然的なこと」「不確定なこと」は種(species) である。すなわち、必然的なこととは「その反対が不可能であるところの、可能なこと」である。例えば「すべての生じたものは滅びる」。不確定なこととは「その反対のことも可能であるところの、可能なこと」である。例えば「今日の日没後に雨が降る」。

[156] 不確定なことには多くの相違がある。頻繁に起こること、稀にしか起こらないこと、起こるか起こらないか同等の可能性があること、可能性が同等ではないこと、の区別がある。人間の選択にゆだねられているのは「同等に不確定なこと」である。続いて、選択における誤りの原因が説明される。人間の魂の原理(principale)である理性と思慮(ratio et consilium)の運動は同意と欲求(assensus etappetitus)である。これらには表象(imaginatio,phantasia)が伴うので、表象に欺かれて、しばしば欲求と同意は歪められ、最善なものの代わりに悪しきものを選んでしまう。この原因は、思慮の不正確さ、無知、悪しき嗜好への没頭、先入観、悪しき習慣など様々である。

[157] 以上のことから、予言や占い、占星術も是認される。これらは不確定なことに関わる。医術や諸学問、立法も、我々の能力の内にある。それゆえ、称賛と非難、賞罰など、徳の奨励と悪徳の取締りも正当なことである。

[158]  本節と次節では「運」と「偶然」について論じられる。無生物や理性を持たない動物に起こることは、偶然によって生じると言われ、人間の営みにとって都合のいいことや妨げとなることは、運によって生じると言われる。ところで、原因には本来的なもの(principalis) と付帯的なもの(accidens) とがある。運命は本来的原因であって、運と偶然は付帯的原因である。出来事は、必然的か、ありふれたものか、稀なものかである。運と