関連箇所

In I Sent. d.19, q.5, a.2
Utrum omnia sint vera veritate increata.
【訳】すべては造られない真理によって真か。

異論一注

Anselmus, De veritate, c.13.
M. Improprie "huius vel illius rei esse" dicitur, quoniam illa non in ipsis rebus aut ex ipsis aut per ipsas in quibus esse dicitur habet suum esse. Sed cum res ipsae secundum illam sunt, quae semper praesto est iis quae sunt sicut debent: tunc dicitur "huius vel illius rei veritas", ut veritas voluntatis, actionis, quemadmodum dicitur "tempus huius vel illius rei", cum unum et idem sit tempus omnium quae in eodem tempore simul sunt; et si non esset haec vel illa res, non minus esset idem tempus. Non enim ideo dicitur tempus huius vel illius rei, quia tempus est in ipsis rebus, sed quia ipsae sunt in tempore. et sicut tempus per se consideratum non dicitur tempus alicuius, sed cum res quae in illo sunt consideramus, dicimus "tempus huius vel illius rei": ita summa veritas per se subsistens nullius rei est; sed cum aliquid secundum illam est, tunc eius dicitur veritas vel rectitudo.

【訳】真理が「このことがら(事物)の真理、あのことがら(事物)の真理」と言われるのは、非本来的な言い方である。なぜなら、真理は、真理がそこにおいてあると言われることにおいて、それらのことから構成されて、それらのことのおかげで、それ自身の存在をもっているのではないからである。むしろことがらが真理によって存在しているのであり、真理は、しかるべき仕方で存在している事物に常に現前している。だから意志の真理、行為の真理が、「このことがらの真理、あのことがらの真理」と言われるのである。ちょうど、同じときに同時に存在しているすべてのものの時間は同一であるにもかかわらず、「このことがらの時間、あのことがらの時間」と言われるのと同じことである。そして、このことがら、あのことがらが存在していないとしても、時間はやはり同じなのである。なぜなら、このことがらの時間、あのことがらの時間と言われるのは、時間がそれらのことがらにおいてあるからではなく、ことがらが時間においてあるからである。そして時間をそれだけで考えるときには、何かの時間とは言われず、時間の中にあることがらを考える時に「このことがらの時間、あのことがらの時間」と言うように、最高の真理も、それだけで自存しているときには、何らかのことがらの真理ではない。しかし、何かがこの真理によって成立するとき、そのものの真理あるいは正しさと言われるのである。
*アンセルムスが「ことがら」として考えているのは、「意志の真理」「行為の真理」という表現から推測すれば、行為や意志であろう。それゆえ、アンセルムスのテキストにあるresは「ことがら」と訳した。

【分析】
アンセルムスが言っているのは、「このことがらの時間」と言うが、それは時間がことがらにおいてあることを意味しないということである。しかし通常、たとえば、「この石の白さ」と言えば、白さは石においてあり、石に依存していることを意味している。したがって、「このことがらの時間」という言い方は、表現とそれによって表されていることが通常とは異なる「非本来的」な言い方である。時間はこのことがらに依存しているのではない。むしろことがらが時間においてある。そしてすべてのことがらがそこにおいてある時間は同一であるとアンセルムスは考える。
このような時間と時間的なものとの関係は、真理と真なることがらとの関係にも妥当する。「ことがらの真理」、あるいは「真なることがら」と言われるが、これは真理がことがらにおいてあることを意味しない。しかしながら、時間と同じように、真理が事物においてあるのではなく、むしろ事物が真理においてあるとしても、そのことからただちにすべての事物にとっての真理が同一であることは帰結しないであろう。この点は、この異論では論証されていない。

異論二注

アウグスティヌス『ソリロクィア』第二巻五章、およびヒラリウス『三位一体論』第五巻三章に述べられた真の定義について、すでに本問第一項異論解答一および本文で次のように言われている。

第一項 異論解答一
【訳】 アウグスティヌスの定義は、事物に基礎をおくものとしての真理についての定義であって、真の概念が事物の知性に対する対等化において完成されるということからの真理の定義ではない。 あるいは次のように言わなければならない。「真とは在るところのものである」と言われるとき、「在る」という語は、そこでは存在の現実態を表示しているものとして受け取られるのではなく、合成する知性のしるし、すなわち、命題の肯定を表示しているものとして受け取られる。そしてその意味は、「真とは在るところのものである、すなわち何かについて在ることが在ると言われるとき、真である」となる。この場合に、アウグスティヌスの定義は、先に挙げた哲学者の定義と同じことになる。

【分析】
ここでアウグスティヌスの「真とは在るところのものである」verum est id quod estは、真理が一つであるという主張を反駁し、真理が複数であることを主張する根拠として用いられている。アウグスティヌスの表現id quod estはentitas reiと言い換えられている。entitasとはある事物についてわれわれが認識できることを指していると考えられる。とすればここでアウグスティヌスのことばのid quod estにおけるquodはestの述語であり、主語は事物であると解釈されていることになる。すなわち、事物がそれであるところのものが真理であると主張されていることになる。事物がそれであるところのものをその事物の本質essentiaと解するなら、真とは事物の本質であることになり、事物の本質が異なるなら、真とされるものも異なることになる。すなわち、人間には人間としての真が、馬には馬としての真があることになる。ただし、この箇所で主張されているのは真とされるものの多ではなく、真理の多である。仮に事物の本質が真であるとしても、そこから本質が異なるなら真理も異なることはただちには帰結しないように思われる。
 第一項異論解答一で、トマスは『ソリロクィア』のことばに二とおりの解釈を示している。一つは、真理は事物に基礎をおくことが述べられているとする解釈である。これはこの異論での解釈と同じであると考えてよいであろう。もう一つの解釈は、「在るを在ると言うことが真である」とアウグスティヌスは主張しているとする解釈である。この解釈は第一項本文では触れられていない。また、アウグスティヌスのことばの解釈としてもいささか無理がある。「estをestと言う」とestが繰り返されているとは読みにくいからである。

第一項 本文
【訳】 第三の仕方では、真はそれにともなう結果によって定義される。この意味でヒラリウスは、「真は在ることを表明し明らかにするものである」と言い、アウグスティヌスは『真の宗教について』で、真理とはそれによって在るところのものが示されるものである」と言い、また同書で、「真理とはそれにより下位のものを判断するところのものである」と言っている。

Hilarius, De trinitate V,3 (PL 10, 131C-132D)
Igitur quia ambiguitatis locus nullus est, quin Moyses unum Deum praedicans, intelligatur de Dei filio significasse quod Deus sit, per ipsas illas significationis suae auctoritates recurramus: et requiramus, an quem Deum significaverit, Deum quoque verum intelligendum docuerit. Nulli autem dubium est, veritatem ex natura et ex virtute esse: ut exempli causa dictum sit, verum triticum est, quod spica structum, et aristis vallatum, et folliculis decussum, et in farinam comminutum, et in panem coactum, et in cibum sumptum, reddiderit ex se et naturam panis et munus.

【訳】それゆえ、モーセが一つの神を宣べ伝えるとき、神の子について神であると表示したと理解されることは疑いの余地がない。われわれはこの表示の権威によった立ち返ろう。そして、問おう。どの神を表示したのか。真の神と理解しなければならないと教えたのか。ところで、真理が本性と力とからなることは誰も疑わない。たとえば、真の小麦は針状の棘を備え、毛に覆われ、もみ殻を取り除かれ、粉にひかれ、パンになり、食物として食べられ、このようにしてそれ自身からパンの本性と役割とを表すのである。

【分析】
異論に述べられている形のテキストはヒラリウスには見いだせない。

異論三注

Anselmus, De veritate c.13
MAG. Si secundum diversitates rerum, necesse est esse diversas rectitudines, utique, secundum res ipsas, habent esse suum eaedem rectitudines: et sicut res ipsae, in quibus sunt, variantur, sic quoque rectitudines varias esse necesse est. DISC. In una re in qua rectitudinem esse dicimus, ostende quod in caeteris intelligam. MAG. Dico quia si rectitudo significationis ideo est alia, quam voluntatis rectitudo, quia ista in voluntate, illa in significatione est, habet suum esse rectitudo propter significationem, et secundum eam mutatur. DISC. Ita est. Cum enim significatur esse quod est, aut non esse quod non est, recta significatio est, et constat esse rectitudinem, sine qua significatio recta nequit esse. Si vero significetur esse quod non est, aut non esse quod est, aut si nihil omnino significetur, nulla erit rectitudo significationis, quae nonnisi in significatione est. Quapropter per significationem habet esse, et per eam mutatur ejus rectitudo: quemadmodum color per corpus habet esse, et non esse. Existente namque corpore, colorem ejus necesse est esse; et pereunte corpore, colorem ejus manere impossibile est. MAG. Non similiter se habent color ad corpus et rectitudo ad significationem. DISC. Ostende dissimilitudinem. MAG. Si nullus aliquo significare velit signo quod significandum est, erit ulla per signa significatio? DISC. Nulla. MAG. An ideo non erit rectum ut significetur quod significari debet? DISC. Non idcirco minus erit rectum, aut minus hoc exiget rectitudo. MAG. Ergo non existente significatione, non perit rectitudo, qua rectum est, et qua exigitur, ut quod significandum est, significetur.

【訳】教師 もしことがらの違いによって、正しさも違うことが必然であれば、それらのことがらに応じて、正しさはそれ自身の存在をもっているのである。そして、正しさがそこにおいてあることがらそのものが変化するように、正しさも変化することは必然である。
弟子 正しさがそこにおいてあるところのことがらを一つ示してください。そうすれば他の場合についても理解できるでしょうから。
教師 表示の正しさが意志の正しさとは別であるのは、一方は意志においてあり、他方は表示においてあるからだとすれと、正しさは表示によってそれ自身の存在をもっているのであり、表示に応じて変わることになる。
弟子 そのとおりです。あるものがあると表示されるとき、あるいはあらぬものがあらぬと表示されるとき、表示は正しく、それなしには表示が正しくありえない正しさが存在していることは明らかです。ところが、あらぬものがあると表示され、あるいはあるものがあらぬと表示されるなら、また、何も表示されないなら、表示の正しさは存在しないでしょう。表示の正しさは表示においてしか存在しないのです。だから表示の正しさは表示によって存在し、表示によって変わることになります。ちょうど色が物体によって存在、非存在をもつように。物体が存在するなら、その色も必然的に存在し、物体が滅びるなら、色もとどまることは不可能です。
教師 色と物体との関係と、正しさと表示との関係は似ていません。
弟子 似ていない点を示してください。
教師 もし表示されるべきものを誰も何らかのしるしによって表示しようとしないならば、しるしによる表示が何かあるでしょうか。
弟子 ありません。
教師 では、表示されるべきことが表示されることは正しくないのでしょうか。
弟子 それは、その場合でも正しくないとか、それは正しさを必要としないということにはならないでしょう。
教師 それなら、表示が存在しなくても、それによって正しく、またそれによって表示されるべきものが表示されることになる正しさが滅びるわけではないのです。

【分析】
アンセルムスが問題としているのは、真理と真理がそこにおいてあることがらとの関係である。もし真理の存在が真なることがらの存在に依存するとすれば、真なることがらの存在が失われれば、そのことがらの真理も失われると考えられる。ところが、真なることがらが存在しなくても、表示されるべきことを表示することは真である。真なることがらが存在しなくても真理は存在すると結論される。
表示する者がいなければ、あるいは表示することがなければ、表示はない。しかし、たとえ表示しなくても表示すべきことを表示することは真である。これがアンセルムスの主張の核心である。しかし、この論から異論の主張する「真理はただ一つだけである」という結論は、ただちには導きだけないと思われる。

異論四注

【分析】
人間の真理、肉の真理という表現で何が意味されているかは不明である。しかし、この異論が注目しているのは文法的構造と存在との関係であろう。人間の真理と言うが、真理が人間に帰属し、真理は人間であると言われることはない。造られたものはすべて真である。したがって、真と真理とは別であることを前提とするなら、真理は造られたものではないことになる。それゆえ、残された可能性は、真理は創造者である神以外にはないことになる。

異論五注

Anselmus, Proslogion, c.14.
Quaerebas deum, et invenisti eum esse quiddam summum omnium, quo nihil melius cogitari potest; et hoc esse ipsam vitam, lucem, sapientiam, bonitatem, aeternam beatitudinem et beatam aeternitate; et hoc esse ubique et semper.

Anselmus, Proslogion, c.15.
Ergo domine, non solum es quo maius cogitari nequit, sed es quiddam maius quam cogitari possit.

Anselmus, Quid ad haec respondeat editor ipsius libelli
Quidquid autem potest cogitari esse et non est, per initium potest cogitari esse. Non ergo "quo maius cogitari nequit" cogitari potest esse et non est.

Augustinus, De lib. arb. I,10,20-21
A. Quid? animus justus, mensque jus proprium imperiumque custodiens, num potest aliam mentem pari aequitate ac virtute regnantem, ex arce dejicere, atque libidini subjugare? E. Nullo modo; non solum propter eamdem in utraque excellentiam, sed etiam quod a justitia prior decidet, fietque vitiosa mens, quae aliam facere conabitur, eoque ipso erit infirmior. 21. A. Bene intelligis; quare illud restat ut respondeas, si potes, utrum tibi videatur rationali et sapienti mente quidquam esse praestantius.E. Nihil praeter Deum arbitror. A. Et mea ista sententia est. Sed quoniam res ardua est, neque nunc opportune quaeritur, ut ad intelligentiam veniat, quanquam robustissima teneatur fide, integra nobis sit hujus quaestionis, diligens et cauta tractatio.
【訳】(イタリックの部分)アウグスティヌス よく理解してくれました。とすれば、残っている問題に答えてくれませんか。理性的で知恵のある精神よりすぐれたものが何かあると思いますか。
エボディウス 神以外にはないと思います。

Augustinus, De trin. XV,1,1
Supra hanc ergo naturam, si quaerimus aliquid, et verum quaerimus, Deus est, natura scilicet non creata, sed creatrix.
【訳】このもの[精神]の上に、何かを求めるなら、そして真実に求めるなら、神が存在する。すなわち、造られたのではなく造るものである神が存在する。

Augustinus, De lib. arb. II,12,34
34. A. Hanc ergo veritatem, de qua jam diu loquimur, et in qua una tam multa conspicimus, excellentiorem putas esse quam mens nostra est, an aequalem mentibus nostris, an etiam inferiorem? Sed si esset inferior, non secundum illam, sed de illa judicaremus, sicut judicamus de corporibus, quia infra sunt, et dicimus ea plerumque non tantum ita esse vel non ita, sed ita vel non ita esse debere: sic et de animis nostris non solum ita esse animum novimus, sed plerumque etiam ita esse debere.
【訳】アウグスティヌス われわれがいままで話してきたこの真理、一つでありながらそのうちにこれほど多くのことを見るこの真理は、われわれの精神が優れている以上に優れていると考えますか。それとも、われわれの精神と同等であるか、あるいは劣っていると考えますか。いや、もし劣っているなら、われわれはその真理にしたがって判断するのではなく、真理について判断していたはずです。ちょうど物体について判断するのと同じように。物体は下位にあり、われわれは物体について、このようであるとかないと言うだけでなく、このようであるべきだ、このようであってはならないと言うこともよくあるからです。精神についても同じように、精神がこのようであると知っているだけでなく、このようでなければならないということも多くの場合、知っているのです。

Augustinus, De vera religione 34
Ubi est verum, quod mente conspicitur? Ita cogitanti jam dici potest: Illa lux vera est qua haec non esse vera cognoscis. Per hanc illud unum vides, quo judicas unum esse quidquid aliud vides, nec tamen hoc esse quod illud est, quidquid mutabile vides.

【分析】
異論の骨子は、人間精神より優れたものは神だけである。ところが、真理は人間精神より優れている。それゆえ真理は神であり、神は一つであるから真理も一つである、という論理である。それゆえ、証明すべきは、一 なぜ人間精神より優れたものが神だけなのか。二 なぜ、真理は人間精神より優れているのか、の二点である。いずれもアウグスティヌスの論を根拠に主張される。 なぜ、真理は人間精神より優れているのか。異論が用いている「についてde」判断する、「にしたがってsecundum」判断するの区別を、述べたアウグスティヌスのテキストの中でもっとも初期のものは上掲の『自由意志論』II,12,34であろう。「について判断する」と「にしたがって判断する」は、判断することを二分する区別ではない。あることが、判断するという働きを挟んで、その上にあるか下にあるかの区別である。それについて判断することの例として、「物体」があげられている。この例を見るなら、「それについて判断する」とはたんに、それについて何らかの命題を形成することではなく、「であるべき」「であるべきではない」という命題を形成することである。アウグスティヌスは、記述的命題を形成するためには真理は必要ではなく、「べき」という命題を形成するときに真理が必要であると考えているように思われる。あるいは、記述的命題を形成する場合に真理の介在が必要であるとしても、それは「べき」という命題を形成する場合のように、真理の働きが顕在的ではないと考えているのかもしれない。
いずにせよ、われわれが正しく「判断する」とき、神である真理にしたがって判断するのであり、したがって、「判断する」われわれに神は何らかの仕方で事実的に知られているというのは、アウグスティヌスにとって核心に位置する考え方である。それゆえまた、神は判断する精神に「直接」知られていることになる。しかも、「判断する」ことは、人間精神が本来的に備えている力であるから、人間精神は本来的に神を「直接」知ることができる、ないし「知っている」と考えなければならない。『三位一体論』第一五巻冒頭で、人間精神の上には神しかないと言われているのはそのためである。
アンセルムスも、人間精神が「事実的に」神を知っていることを、真理概念を手がかりに主張する点ではアウグスティヌスと共通する。ただし、たんに真偽を判断することから、判断の根拠である真理が知られていると主張するのではなく、常に真であるような判断内容verumから真理veritasについての知を論じる方法は、アウグスティヌスの場合、『アカデミア派駁論』のような初期著作をのぞけば、見いだされない。

異論六注

Augustinus, De diversis quaest. LXXXIII, q.9
IX. Utrum corporeis sensibus percipi veritas possit.
Omne quod corporeus sensus attingit, quod et sensibile dicitur, sine ulla intermissione temporis commutatur : velut cum capilli capitis nostri crescunt, vel corpus vergit in senectutem, aut in juventam efflorescit, perpetuo id fit, nec omnino intermittit fieri. Quod autem non manet, percipi non potest: illud enim percipitur quod scientia comprehenditur. Comprehendi autem non potest quod sine intermissione mutatur. Non est igitur exspectanda sinceritas veritatis a sensibus corporis.

【分析】

『八十三問題集』でのアウグスティヌスの論は次のような構造である。

異論においてもこの構造は正しく再現されている。ただし「捉える」という用語は、アウグスティヌスにおいては、変化しないものについてのみ使われる語であり、感覚は捉えることができないとされているが、異論においては、「可変的なものを捉えることができる」と解されている。
同じ推論形式を踏襲しつつ、「感覚されるもの」を「造られたもの」に置き換えるなら、次の推論が成立する。

異論七注

Aug. De div. quaest. 83, 9
Sed ne quis dicat esse aliqua sensibilia eodem modo semper manentia, et quaestionem nobis de sole atque stellis afferat, in quibus facile convinci non potest; illud certe nemo est qui non cogatur fateri, nihil esse sensibile quod non habeat simile falso, ita ut internosci non possit. Nam ut alia praetermittam, omnia quae per corpus sentimus, etiam cum ea non adsunt sensibus, imagines tamen eorum patimur tanquam prorsus adsint, vel in somno, vel in furore. Quod cum patimur, omnino utrum ea ipsis sensibus sentiamus, aut imagines sensibilium sint, discernere non valemus. Si igitur sunt imagines sensibilium falsae, quae discerni ipsis sensibus nequeunt, et nihil percipi potest nisi quod a falso discernitur, non est judicium veritatis constitutum in sensibus. Quamobrem saluberrime admonemur averti ab hoc mundo, qui profecto corporeus est et sensibilis, et ad Deum, id est veritatem, quae intellectu et interiore mente capitur, quae semper manet et eiusdem modi est, quae non habet imaginem falsi, a qua discerni non possit, tota alacritate converti.

【分析】

【訳】しかしもしかして、誰かが、感覚されうるもののいくつかは常に同じあり方にとどまっている、と言って、太陽や星のことでわれわれに疑問を向けるかもしれない。これらの場合には容易に説得されることができないのである。しかし、このことは誰でも認めざるをえないであろう。感覚されうるもので、偽に似たものを、識別不可能であるような仕方で、もっていないものはない、と。と言うのも、他のことにはふれないことにして、身体を通して感覚することはすべて、それが感覚に現前していないときでも、それらの像をあたかも現前しているかのように経験することがある。たとえば夢や狂気の場合である。

【分析】
異論の引用は、ほぼアウグスティヌスのテキストどおりである。アウグスティヌスの結論は上記の文の最後「真理の判断は感覚においては確定されない」あるいは「真理の判断は感覚におかれていない」という部分である。この文の意味はいささか曖昧であるが、文脈から判断すれば、感覚されるものの場合、真偽の確定した判断はできないということであろう。なぜなら、感覚されるものにおいては、真が偽ときわめて近いsimile falsoのが常だからである。
このアウグスティヌスの結論を異論は、「真理は感覚によっては捉えられない」と解釈している。これはあるいはアウグスティヌスの趣旨に近いかもしれないが、論としてはいささかの不整合を含んでいると思われる。偽でないことのたしかな真が感覚されないということと、真理が感覚されないということとは、真と真理とを区別するかぎりは別の事態だからである。
この問題は、『八十三問題集』執筆時点でのアウグスティヌス自身の問題でもあったと想像される。初期著作において、必然的ないし永遠的真と真理との区別は曖昧なばあいがあるからである。感覚的なものに真は見いだされないというプラトン主義的な立場から、次第に感覚的なものに見いだされないのは真ではなく、永遠性であるという考え方、すなわち真と永遠性とを区別する考え方に移って行く過程にアウグスティヌスはあると考えられる。

反対異論一注

Augustinus, De Vera Religione 36, 66
At si corpora in tantum fallunt, in quantum non implent illud unum quod convincuntur imitari, a quo principio unum est quidquid est, ad cuius similitudinem quidquid nititur, naturaliter approbamus; quia naturaliter improbamus quidquid ab unitate discedit, atque in eius dissimilitudinem tendit: datur intellegi esse aliquid, quod illius unius solius, a quo principio unum est, quidquid aliquo modo unum est, ita simile sit, ut hoc omnino impleat ac sit id ipsum. Et haec est ueritas et uerbum in principio et uerbum deus apud deum. Si enim falsitas ex his est, quae imitantur unum, non in quantum id imitantur, sed in quantum implere non possunt, illa est ueritas, quae id implere potuit et id esse, quod illud est. Ipsa est, quae illud ostendit, sicut est, unde et uerbum eius et lux eius rectissime dicitur. Cetera illius unius similia dici possunt, in quantum sunt, in tantum enim et uera sunt. Haec autem ipsa eius similitudo et ideo ueritas. Vt enim ueritate sunt uera quae uera sunt, ita similitudine similia sunt quaecumque similia. Vt ergo ueritas forma uerorum est, ita similitudo forma similium. Quapropter quoniam uera in tantum uera sunt, in quantum sunt in tantum autem sunt, in quantum principalis unius similia sunt, ea forma est omnium quae sunt, quae summa similitudo principii et ueritas est, quia sine ulla dissimilitudine est.

【訳】物体はかの一を充足していないかぎりにおいて欺く。その一とはそれをまねるべきものであり、それを始源として、存在するものすべてが一であり、それとの類似を目指しているものをわれわれも自然に同意するものである。というのも、一から離れているもの、一との非類似を目指しているものはすべて、われわれは自然に否認するからである。とすれば、何であれ何らかの仕方で一であるものが、それを始源とし、そのゆえに一であるところのかの唯一の一を、完全に充足し、ほとんど同じであるほどに似ている何かがあると理解される。これは真理であり、初めにあった御言であり、神のもとなる神としての御言である。偽が、一を模倣しているがこのものほどには模倣しておらず、むしろ充足できていないものに由来するのであれば、真理はかのものを充足しえて、かのものがそれであるところのものである。・・・(中略)・・・真理によって真であるものが真であるように、類似によって類似しているものは類似している。それゆえ真理は真なるものの形相であるように、類似は類似しているものの形相である。

【分析】
『八十三問題集』の文脈から明らかなように、アウグスティヌスはここで、それによって真なるものが真であるような真理は唯一であると考えている。類似性についても同様である。ところが、反対異論はアウグスティヌスの意図に反し、形相formaをアリストテレス的な意味に理解し、類似したもののそれぞれにそれぞれ異なったformaがあると考えている。

反対異論二注

【分析】
ディオニュシオスが光と呼んでいるのは「存在と見ることの原因」としての摂理である。光のウーシアであるのは唯一の神であるが、この光に照らされたものが、次のくるものを照らすと言われているから、この意味で光は複数あることになる。
ここで論の前提となっているのは範型論である。範型論は、同形相的なものすべてがその存在を唯一の根源からえていると考えると同時に、範型とそれに由来するものとを別の存在であると考える。別であることに注目するなら、範型に由来するものの存在は、それ自身複数であると考えられることになる。ディオニュシオス自身は真理という語を用いていないから、異論は、まず真理と知性的光との並行関係を確認している。

反対異論三注

In de anima II, l.14, n.5
Color est motivus diaphani secundum actum. Diaphanum autem est idem quod transparens, ut aer vel aqua;
【訳】色は現実態にあるdiaphaniを動かすものである。diaphaniとは「透明体」と同じであり、空気や水のことである。

【分析】
色が見られるためには「光(空気の透明性)」が必要であるという自然学の知識を前提として論じられている。光は同一でありながら、すべての色にとってその現実態の根拠である。しかし、現実態の根拠が同じであるからといって、すべての色が一つであるとは言わない。真理の場合も同様に、すべての真理は唯一の真理により知性に認識されるとしても、そのことによって、すべての真理は同じであるとは言わない。

反対異論四注

【分析】
反対異論三の論法を、すべての働きに拡大している。可能態にあるものは、現実態にあるものによらなければ、現実態に至ることはできないというアリストテレスの考え方が論の前提となる。

反対異論五注

【分析】
神は事物の作出因、範型因、目的因であり、事物のentitas, veritas, bonitasはそれぞれの原因と関係している。しかし、事物のentitas, bonitasの場合、神が一つのものとしてすべての事物のentitas, bonitasの原因であるとしてもすべての事物のentitas, bonitasは一つであるとはいわない。したがってveritasの場合も、その原因は一なる神であるが、だからといって事物のveritasが一つであるといってはならない。
quamvis etiam singula ...をどこにかけるか。またどのような意味にかけるかが問題である。ここではquamvis ... sed ...「ではあるがしかし」と読んだがこれはLeo版のpunctuationに従っていない。
またその意味は、神においてentitas, veritas, bonitas はそれぞれのペルソナすなわちpater, filius, spiritus sanctusに関係づけられるがこれはどこまでも神の内の区別を指しているのではなく、語り方による区別ではあるが、しかし、区別されていることはたしかである、と読む。

反対異論六注

De causis 24

Et dico quod omnis aeternitas est esse, sed non omne esse est aeternitas. Ergo esse est plus commune quam aeternitas. Et Causa prima est supra aeternitatem, quoniam aeternitas est causatum Ipsius.
【訳】わたしは次のように主張する。永遠性はすべて存在であるが、存在は必ずしも永遠性ではない。したがって存在は永遠性より共通的である。第一原因は永遠性の上にある。永遠性は第一原因から原因されたものだからである。

De causis, expositio 23
Primum autem scilicet quod causa prima plus influat quam secunda sic probat: Eminentius convenit aliquid causae quam causato.
【訳】第一に、第一原因が第二原因より大きな力をもつことは次のように証明される。何かは、原因されたものより原因の方に、より卓越した仕方で妥当する。

De causis 14
Et causa prima adiuvat secundam causam super operationem suam: quoniam omnem operationem quam causa efficit secunda, prima etiam causa efficit; verumtamen efficit eam, per modum altiorem et sublimiorem.

【分析】
『原因論』のこれらの箇所はいずれも、反対異論に使われたままの表現ではない。いずれも、原因は結果より優れている。あるいは結果に与えたものをよりすぐれた仕方でもっていると、主張している。原因結果のこのような考え方が、明白に表明されているもっとも古いテキストは『形而上学』第二巻である。このように原因の方が結果より優勢であるとするのは、他のアリストテレスの原因結果の説明と調和しないように思われるから、『形而上学』第二巻は、真正のアリストテレス思想ではないとされる。

反対異論七注

【分析】
種が異なっているなら、対等化も異なっていると主張されるのは、対等化を形成する形相が異なれば対等化も異なると考えられているからであろう。形相が同一である事物が種を形成しているのであるから、この考え方に従えば、種を越えた対等化は一つではありえないことになる。

反対異論八注

Augustinus, De trin. 12,15,24
Sed potius credendum est mentis intellectualis ita conditam esse naturam ut rebus intellegibilibus naturali ordine disponente conditore subiuncta sic ista uideat in quadam luce sui generis incorporea quemadmodum oculus carnis uidet quae in hac corporea luce circumadiacent, cuius lucis capax eique congruens est creatus.
【訳】しかしむしろ次のように考えた方がよい。知性的な精神のあり方は、創造者の定めたところの生まれながらの秩序により、可知的な事物のすぐ下に位置しているので、それ自身と同類の一種の非物体的な光にの中でこれを見ることができるのである。ちょうど肉の目が、物体的な光の中で、そのような光を受け取るに適したものとして造られているので、周囲のものを見ることができるのと同じように。

【分析】
アウグスティヌスが、非物体的な光を精神と同類と読んでいるのは、文脈から明らかなように、「非物体的であることにおいて共通する」という意味であって、造られたものであるという点で同類ということではない。むしろアウグスティヌス自身は、非物体的な光を真理あるいは神であると考えている。この意味で異論はアウグスティヌスの意図と文脈に反した解釈を行っている。

主文段落一注

Arist. Metaph. IV, 2, 1003a33-1003b10
To\ de\ o)\n le/getai me\n pollaxw=j, a)lla\ pro\j e(\n kai\ mi/an tina\ fu/sin kai\ ou)x o(mwnu/mwj a)ll' w(/sper kai\ to\ u(gieino\n a(/pan pro\j u(gi/eian, to\ me\n t%= fula/ttein to\ de\ t%= poiei=n to\ de\ t%= shmei=on ei)=nai th=j u(giei/aj to\ d' o(/ti dektiko\n au)th=j, kai\ to\ i)atriko\n pro\j i)atrikh/n --to\ me\n ga\r t%= e)/xein i)atrikh\n le/getai i)atriko\n to\ de\ t%= eu)fue\j ei)=nai pro\j au)th\n to\ de\ t%= e)/rgon ei)=nai th=j i)atrikh=j--, o(moiotro/pwj de\ kai\ a)/lla lhyo/meqa lego/mena tou/toij, * ou(/tw de\ kai\ to\ o)\n le/getai pollaxw=j me\n a)ll' a(/pan pro\j mi/an a)rxh/n:
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【訳】『形而上学』第四巻第二章
存在は多義的に言われるが、一つのもの、一つの本性との関係で言われるのであり、同名異義的に言われるのではない。むしろちょうど健康的なものがすべて健康との関係で、あるものは健康を守ることにより、あるものは作り出すことにより、あるものは健康のしるしであることにより、また健康を受け容れうるものであるから、健康的と言われるのと同じように、また医術にかかわるものが医術との関係で、あるものは医術をもっていることにより医術的であり、あるものは医術への適性により医術的であり、あるものは医術の成果であるがゆえに医術的であると言われ、他のこともこれと似たような仕方で医術的であると言われていることがわかるであろうが、これと同じように存在も多義的に言われるのではあるがすべては一つの根源との関係で言われるのである。

Ps. 11,2
11:2 salvum me fac, Domine, quoniam defecit sanctus: quoniam deminutae sunt veritates a filiis hominum.
Petrus Lombardus, Commentaria in Psalmos 11, v.1
Salvum me fac, Domine. [Cassiod.] Deinde exponit quae timuit, multa congregans in unum, ut major vis periculi appareat, dicens: Quoniam defecit sanctus, quasi dicat: Ideo clamo, quoniam defecit sanctus, id est non invenitur sanctus in hoc mundo, ubi tot mala sunt. Haec opinio fuit et in [0155A] Elia, quando dixit: Domine, relictus sum solus (III Reg. XIX) . Vel, sanctus, id est Deus, qui ubique est praesens; [Alcuin.] quantum ad homines, defecit, quia vix ab homine agnoscitur. Defecit ergo, quantum ad eos, qui in eum non credunt. [Aug.] Et vere defecit sanctus, quia defecit veritas. Et hoc est, quoniam diminutae sunt veritates a filiis hominum. Pluraliter dicit veritates, quia agit de veritatibus hominum. Veritas enim Dei una est, qua illustrantur animae sanctae; sed in hominibus multae sunt veritates. Sicut ab una facie multae in speculis imagines apparent. [Cassiod.] Et nota quod non ait in filiis, sed, a filiis hominum, quia dona Dei culpa eorum depravantur, et diminuuntur.
ペトルス・ロンバルドゥス『詩編注解』11, v.1
【訳】(アウグスティヌスの部分)[アウグスティヌス]まことに聖なる者は欠けていた。なぜなら、真理が欠けていたからである。すなわち、諸々の真理は人の子らによって小さくされたからである。複数で諸々の真理と言われているのは、人間の真理を問題としているからである。神の真理は一つであり、これによって聖なる魂が照らされる。しかし、人間においては多くの真理がある。ちょうど一つの顔が多くの鏡に映って多くの像が現れるように。

Augustinus, In Ps. 11,2
Quoniam diminutae sunt veritates a filiis hominum. Veritas una est, qua illustrantur animae sanctae: sed quoniam multae sunt animae, in ipsis multae veritates dici possunt; sicut ab una facie multae in speculis imagines apparent.

【分析】 真理が見いだされる場は三つあるが、それぞれにおいて真理が見いだされる仕方は異なる。

神の知性において第一に本来的に
人間知性において第二に本来的に
事物において第二に非本来的に

真理の定義は「知性と事物との対等化」であった。この対等化が成立するのは知性においてであるから、真理がその本来の意味で見いだされるのは知性においてである。したがって、真理は神の知性、および人間の知性においては本来的に見いだされると言われる。これに対し、事物は知性との対等化の根拠を有していると考えられる。それは知性に認識されるところの事物のあり方である。これは異論ではentitasと言われていた。第三には、このentitasも真理と言われる。ただしentitasは対等化adaequatioそのものではなく、対等化の根拠であるから、この場合の「真理」はその本来の意味で用いられているのではない。したがって、「非本来的」と言われている。
ことばが本来的な意味で用いられるだけでなく、非本来的な意味でも用いられることの説明はアリストテレス『形而上学』に求められている。
これに対し、「第一に」と「第二に」との区別は、第一の真理に「由来するderivatur」ことが「第二に」と言われる根拠であるから、原因と結果との関係に基づく区別である。
なぜ神の知性ににおいて真理は一つなのか。真理とは知性と事物との対等化であるから、この対等化が一つであるのは神の知性が一つであり、神の知性によって認識されている事物も一つであることを意味している。

主文段落二注

【分析】
人間知性との関係で言われる真理は、事物にとって付帯的である。たとえば、石は、それが人間知性に正しく認識されているとき、「真の石」として認識されている。もし認識する知性がなければ、「真の」石ではない。しかし、トマスによれば、その場合も石は石の本質にとどまっている。したがって、この石にとって、「真である」ことは付帯性であって、石の本質には含まれない。しかし、神の知性に認識されていることによって、この石が「真である」と言われるとすれば、この真であることは石にとって付帯性ではない。この意味での「真である」ことを失うなら、石としての存在も失うことになるからである。
 本質に含まれるか否かは、そのものを失うことが存在を失うことであるか否かによって決定される。したがってまた付帯性も、それを失っても存在が失われることがないものが付帯性であることになる。

主文段落三注

【分析】
事物にとって神の知性との関係でいわれる真理は、人間知性との関係における真理より先である。すなわち、神の知性は事物の存在の原因であるが、人間知性における知はある意味で事物の結果である。

異論解答四注

【分析】
異論に言う「それ自身の真理ではない」の意味は不明瞭であった。したがって、まずその意味を確定することから始められる。すなわち、トマスは異論の言う「真理」を事物の真理すなわち事物の存在性の意味に理解している。では、なぜ事物の存在性がそれ自身の存在性ではないと言われうるのか。それは、事物の「存在」と同じように、事物の存在性も事物それ自身に与えたものではないからである。しかし、事物の存在が造られたものであるのと同じように、事物の存在性も造られたものである。

異論解答五注

【分析】
アウグスティヌスの主張を、われわれは神である真理によってすべての判断を行うという主張であると認めた上で、そのようにアウグスティヌスが言っているのは、われわれがそれによって判断する第一原理の真理は神である真理の類似であることによると解釈している。したがって神であるところの真理とわれわれの知性との関係はわれわれの認識における関係ではなく、存在における関係であることになる。

De ver. q.8, a.9
Nono quaeritur utrum formae per quas angeli cognoscunt res materiales, sint innatae, vel a rebus acceptae.
【訳】第九に、天使がそれによって質料的な事物を認識する形相は生得的か、事物から受け取ったものかが問われる。

De ver. q.8, a.9, c.
Et ideo dicendum videtur, secundum quod tertia opinio dicit, quae communior est et verior, quod angeli res materiales per formas innatas cognoscunt. Sicut enim ex rationibus aeternis in mente divina existentibus procedunt formae materiales ad rerum substantiam, ita procedunt a deo formae rerum omnium in mentes angelicas ad rerum cognitionem;
【訳】それゆえ、次のようにいわなければならないと思われる。…中略…神の精神のうちに存在する永遠の理念から質料的形相が発出して事物における実体を構成するにいたるように、すべての事物の形相は神から天使の精神へと発出して事物の認識を構成するにいたる。

exemplariter
In I Sent. d.3, q.1, a.3, co.
Respondeo dicendum, quod, cum creatura exemplariter procedat a deo sicut a causa quodammodo simili secundum analogiam, eo scilicet quod quaelibet creatura eum imitatur secundum possibilitatem naturae suae, ex creaturis potest in deum deveniri tribus illis modis quibus dictum est, scilicet per causalitatem, remotionem, eminentiam.
【訳】答えて次のように言わなければならない。被造物は神を原因として、アナロギアによりある意味で類似した原因である神から、範型的に発出するのであるから、すなわちいかなる被造物もその本性に可能な限りで神を模倣しているのであるから、被造物から神にいたることは、前述の三つの仕方で可能である。

【分析】
exemplariterがa causa quodammodo simili sec. analogiamと説明的に言い換えられていると考えられる。

In I Sent. d.19, q.5, a.2, arg.3.
【訳】さらに、真理が真なるものに対する関係は、善が善いものに対する関係と同じである。ところが、すべてのものは一つの善によって善い。だからアウグスティヌスは『三位一体論』第八巻で言う。「人が善い。顔が善い。これが、あれが善い。これが、あれがを取り去りなさい。そうすればすべての善いものの善をみることになる。」したがって、すべてののものにおいて分有され、それによってすべてが善いと言われる、数において一つの善性があると思われる。それゆえ同様に、すべては一つの真理によって真と言われるのであり、この真理は造られない真理であると思われる。

In I Sent. d.19, q.5, a.2, ad 3.
Ad tertium dicendum, quod similiter dico de bonitate, quod est una bonitas, qua sicut principio effectivo exemplari omnia sunt bona. Sed tamen bonitas qua unumquodque formaliter est bonum, diversa est in diversis. Sed quia bonitas universalis non invenitur in aliqua creatura, sed particulata, et secundum aliquid; ideo dicit Augustinus, quod si removeamus omnes rationes particulationis ab ipsa bonitate, remanebit in intellectu bonitas integra et plena, quae est bonitas divina, quae videtur in bonitate creata sicut exemplar in exemplato.
第三に対しては次のように言わなければならない。善性についても同様に次のようにわたしは言う。それを範型的かつ作出的始原とし、それによってすべてが善いところの善性は一つである。しかしながら、個々のものがそれによって形相的に善いところの善性は、事物が異なるに応じて異なっている。しかし、何らかの被造物において見いだされるのは普遍的な善性ではなく、個別的で限定された善性である。だからアウグスティヌスは善性からすべての個別性の概念がすべて取り除かれるなら、知性において残るのは欠けるところのない完全な善性であろう。これが神の善性であり、神の善性は被造物の善性において、ちょうど範型が範型によりかたどられたものにおいて見られるような仕方で見られる。
【分析】
この異論解答が、『真理論』のこの箇所とほぼ同じアウグスティヌス解釈である。結論は、範型的作出的始源としての善性は一つであるが、形相的原因としての善性はそれぞれの被造物が個別的にもっているというものである。アウグスティヌスが問題にしている真理は前者、この項で問題になっているのは後者であるとされる。

In Met. IV, l.6 [599]
Tertia conditio est, ut non acquiratur per demonstrationem, vel alio simili modo; sed adveniat quasi per naturam habenti ipsum, quasi ut naturaliter cognoscatur, et non per acquisitionem. Ex ipso enim lumine naturali intellectus agentis prima principia fiunt cognita, nec acquiruntur per ratiocinationes, sed solum per hoc quod eorum termini innotescunt. Quod quidem fit per hoc, quod a sensibilibus accipitur memoria et a memoria experimentorum et ab experimento illorum terminorum cognitio, quibus cognitis cognoscuntur huiusmodi propositiones communes, quae sunt artium et scientiarum principia.
【訳】[第一原理であるための]第三の条件は、論証などによって獲得されたのではなく、いわば自然本性によってそれをもっているものに備わり、いわば自然本性的に知られるのであって、獲得することによって知られるのではないということである。能動知性の自然本性的な光によって、第一原理は知られたものとなるのであって、推論によって知られたものとなるのではなく、その項が知られることによって知られるのである。このことは次のようにして実現する。感覚から記憶が受け取られ、経験の記憶と経験からそれらの項の認識が受け取られ、項が知られるなら、このような共通命題も知られるのであり、これらの共通命題は技術や学知の原理である。

【分析】
第一原理の知は、そこから帰結することが知られるとき、あらかじめ知られていなければならないが、しかしそれはそこから帰結することと同じ仕方で知られているのではない。この知られ方が、ここで「いわば本性的に知られているquasi ut naturaliter cognoscatur」と言われている。

異論解答六注

【分析】
アウグスティヌスの言う「不変の真理」が神であることは認められる。この異論では、すべての真がそれによって真である「真理」については何も述べられていない。それゆえ、トマスはこの異論の主張を、たんに不変の真理は神以外にはないという主張であると考え、認めることができたのであろう。

異論解答七注

【分析】
アウグスティヌスは異論六で用いられた論に対する反論を予想している。すなわち、太陽や星は感覚されうるものであるが、永遠であるという反論である。この反論に対し、感覚されうるものは偽と似ているという論が立てられる。すなわち、すべて感覚されうるものは偽と識別不可能であるから、真理ではありえないと主張される。これに対し、トマスは、事物が何らかの欠陥をもっているとしても、事物の真理は事物の欠陥を共有しないと答えている。したがって、事物と真理とは別の意味で、永遠であることになる。

反対異論一解答注

【分析】
アウグスティヌスの文脈においては、真理は一つであると考えられている。それゆえトマスもアウグスティヌスの解釈としては、テキストで語られているのは神の知性において成立している真理であると考える。しかし、アウグスティヌスにおける類似と真理との並行関係については修正している。類似は似ているものの両方にその概念が見いだされる。したがって「類似性」の成立を一方だけに優先的にproprie認めることはできない。しかし、真理の場合、その概念は知性において優先的に成立する。したがってすべての真なるものを真たらしめている真理は、究極的には神の知性における真理であると考えられる。

異論解答二注 【分析】
反対異論は、真理と光とに並行関係を認め、光は、範型的には神に由来するが、複数の光が語られるのと同じように、真理も、範型的には神に由来するのであるが、複数の真理を語ることはできると論じている。典拠とされた偽ディオニュシオスによれば、知性的な光は神に発するが、それを受け取ったものが下位のものに伝達するという仕方で、拡散する。したがって、一つの光に由来する複数の光があると考えることに矛盾はないことになる。トマスは、しかし、光と真理との並行関係を認めない。知性的な光と言われるのは造られた光であると考える。これは、知性の働きに神の介在を認める、アウグスティヌスにもみられる新プラトン主義的な立場との相違である。